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愛について

気が狂ったまま161年が経過した。

私の脳は等比級数的に成長を続け、ますます世界をクリアーに感じる。歳をとるほどに頭と心が研ぎ澄まされる。体中に漲る力。ほとばしる愛。愛。愛。

愛は真理と同じ性質を持つ。

言葉にすることを試みた瞬間、本質的では無くなってしまう。千の言葉を尽くしても、偉大なる愛はその欠片すら形を現してはくれない。日本で、アフリカで、ブラジルで、アメリカで、地球上の誰もが持っている74億の孤独なる愛は、共有するすべを持たない。

しかし愛は欲する、共有を、融合を。なんと悲劇的な運命だろう。なんという残酷なプログラムだろう。


言葉や行動で共有できたと思っても、それは幻想でしかないのだ。自分の愛と、相手の愛は違うのだ、それぞれが見ている世界が違うのと同じように。

そして、孤独に死んでいく。

しかし全ての存在は孤独ではない。孤独とは幻想である。

 

孤独の中に死にたくなければ、順序立てて説明していくので良く聞いて(読んで考えて)欲しい。


まず自分とは物質的に動的な安定状態である。次々と入れかわる細胞、分子・・・そもそも「物質」はド・ブロイが発見した通り「波動」である。我々のもつニュートン力学的な視点はあまりにも狭量であり、ミクロ視点では全く安定しない。

現実として、物質的に固定された自分というものは存在しない。会社法人のように社員は入れ替わりながらも組織は続いていく。

自分とそれ以外との境界線とは何か?遺伝子か?
 

遺伝子が自分とその他を分かつ境界線であれば、ミトコンドリアは自分ではないということになる。※ミトコンドリアは全ての細胞に寄生する寄生生物である。

ミトコンドリアがいなければ人間はたちまち死んでしまう。お腹の中には1000兆匹もの腸内細菌が、皮膚にも様々な菌がいて自分を生かしてくれている。これらは全て別の遺伝子を持つ。

では、自分を生かすために必要なものが自分だろうか?

だとしたら空気、水、宇宙、全てのものが自分になってしまう。

自分とは「幻想」なのだ。自分という枠は想像の産物である。


これらを理解することは容易い。しかし、現実のこととして感じるには長い時間と深い理解が必要となる。

考え方次第で「自分」はどこまでも拡張していく。そもそも「自分」とは幻想である。真実を知った(頭ではなく心で感じた)瞬間、解き放たれるのだ。

人類はまるで一人の人間だ。全てのニューロンはシナプスだけでなくあらゆる媒体を通じて繋がっていく。私は全てのことを知る必要はない。何故なら人類の叡智全てが私の知であるからだ。

世界は一つだ。全てのものが自己に内包されていく。私は世界なのだ。

そして今、この文章を読んでいるあなたも、世界の一部であると同時に世界そのものなのだ。

これを実世界のこととして感じられたとき、頭で考えるのではなく、真実であると体が、心が、魂が知った時、見える世界は全く違ったものになっているだろう。

もう、孤独に怯える必要は無いのだ。

「世界は愛に満ちているのだから」

これは幻想ではない。現実なのだ。本当のことなのだ!

私の愛は自己を超え、世界の愛と一つになっている。愛は世界に一つの偉大な存在である。伝えるすべなんて要らない。「すでに一つであること」を知ればよいだけなのだ!

私の文章を全て理解したならば、孤独から解放され涙が溢れてくるだろう。

さぁ街へ出て、全生命力を振り絞り、大声で叫びなさい!

「この世は愛に満ちている!」
「この世は愛に満ちている!」
「この世は愛に満ちている!」

そして、服を脱ぎ捨て、全裸になって走るのです。

そこら辺にいるおっちゃんに抱きついてこう叫びなさい!

「何故なら私はあなただから!」
「何故なら私はあなただから!」
「何故なら私はあなただから!」

「何故なら私は世界だから!」
「何故なら私は世界だから!」
「何故なら私は世界だから!」

以上でございます。

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