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モノサシ

(実話ベース)
ある男(金)は人を年収で判断した。

友達である男(強)にこう言った。
 

男(金)「お前の年収はいくらだ?」
男(強)「ほとんど無職みたいなもんだ、年収はほとんどない」
男(金)「お前そんなんじゃダメだぞ、今まで無駄に過ごしてきたことを反省しろ。俺の年収はまずまずだ。それに比べてお前は全然価値の無い人生を歩んできたんだぞ。」


延々と続く「上から目線」の罵詈雑言に腹が立ってきた男(強)は言い返した
 

男(強)「俺は格闘技の元日本チャンピオンだ。俺が人間の価値を「喧嘩の強さ」だと考えるなら、今すぐ暴力でお前のくだらねえ口を利けなくすることだってできる。誰かが助けに来る前にカタがつくぞ」
 

男(金)は黙った。

 

そして思った(暴力でしか人を測れない野蛮人め、年収なら俺のほうが勝ってるんだ。格闘技みたいに価値がない(金にならない)ものに人生を注ぎ込んだ馬鹿が。年収が上の俺様を恫喝するんじゃねえよ)
しかし、男(金)は黙るしかなかった。殴られないためには黙るしかなかったのだ。

人の価値を一つのモノサシで測るほど横着で大雑把なことはない。そもそも馬鹿げている。


現代の学歴・年収・容姿偏重主義は狂気じみている。

 

測りやすいもので測ろうとしている。そして、測っているものを見ている内に、見えやすい結果を「全て」だと勘違いしている。

現代社会では沢山の人を迅速に評価する必要がある。そのために簡単に人を測るモノサシが必要となる。工場であれば生産性の高い人を雇いたいだろう。研究がお金を生み出す現場で利益をあげたければ、知識や発想力のある人を選別する必要があるだろう。身長を測るなら身長の計測器とセンチメートルという単位を使えばいいだろう。学歴で測ろうとする人もいる。自分にどれだけ金銭的・名誉的な利益をもたらしてくれるか、その期待値で判断しようとする人もいる。

社会的地位や権力に弱いは多い。お金持ちを成功者と呼ぶ人もいるだろう。IQが高ければ賢くて偉いと思う人もいるかもしれない。

「○○を測る為のモノサシ」というものは存在するが、人を測るモノサシなんて存在しない。人を一つのモノサシで測ろうとする行為は、本来複雑なものを複雑なまま処理することを避けた結果である。そもそも「人」と「価値」という言葉は結びつかない。


「価値」という語は対象を必要とする。誰にとっての「価値」なのかが重要なのだ。
 

例えば、マニア垂涎のお宝プラモデルも関係ない人から見たらただのガラクタである。1億円の絵画も興味のない人にとってはただの絵である。1億円の現金でさえネコにとってはただの障害物である(爪とぎにはなるかもしれない)。

そんな中で、もし、一つのモノサシで人を測るとしたら・・・

それは「優しさ」だと思う。「優しさ」を持っている人を大切にしたい。

どんなにみすぼらしくて、頭が悪くて、お金がなくて、社会的地位も無い人でも、自分より「優しい」を私は迷わず尊敬する。本当は「優しさ」だけでも測ることはできない。複雑なものを複雑なまま受け止めながら、自然にいい見方を身に付けていくしかない。

無意識でできるようになるのには何年も必要だろう。
 

幸い私は幼い頃より母から上記のような判断の馬鹿らしさについて教育されており、体の芯まで叩き込まれている。本当にありがたいことだと感じている。人をニュートラルに感じることができるという財産を母からいただいたことを本当に感謝している。
 

「人を測るという行為」は測る人自身を測るような不思議な行為でもある。

何に価値を見出しているかが如実に現れるからだ。測るとは自分自身と向き合う行為である。

馬鹿げたモノサシで人を判断しないようにしよう。

そのほうが、きっと人を好きになれる。
 

そのほうが、もっと世の中を楽しめる。

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