
偽りのジェンダー
男と女は稟質(生来の性質)が異なる。よって法律的・社会的に同じ存在を目指すべきではない。これは自然なことである。
男と女、両方が幸せになる状態を「両性が法律的・社会的に同じ扱いになること」と考える人はあまりいないのではないだろうか。
しかし、世の中はその方向へ進もうとする。一部の活動的な方々はまるで一般市民の代弁者のような素振りである。形式的な平等、書類・文言上の平等は理解が得られやすいことも要因であろう。

まず、人類という種はその歴史の99%以上の期間を、オスが獲物を獲りメスは子を育て、オスはメスを守り、大切にして暮らしてきた。
それが幸せであり自然な姿なのだろう。
私は、妻が夫を支え、励まし、夫が妻のために必死になって働くという形を「女性抑圧」だとは思わない。そんな価値観は誰が考えたんだろう。
少し脱線するが、専業主婦を叩く男性がいる。
曰く「専業主婦は働く者より楽だ」と。
私はこれを見た当初理解できなかった。そして、考えた上で理解した。
この発言の意図するところは「俺は一生懸命働いているのに、嫁は楽をして暮らしていてズルイ」ということなのだと。
個人主義の極北である。愛する人と比べても、自分という個が大切なのか。
愛する人。自分の妻が楽なら嬉しいのは自分ではないか?
自分の愛する人に楽をさせてあげるために働くのではないのか?
私の妻は専業主婦だが、私は大変苦労を掛けていると感じている。もっと楽をさせてあげたい。私はサラリーマンであり、多くの人と同じように大変な事も多々経験する。しかし、それに耐えられるのは、妻の支えあってこそだ。
私はこの自然の形は素晴らしいと感じている。一人の男性である私が、一人の女性である妻に支えられ、働く。男尊女卑だとは思わない。平等では無いかもしれないが、対等であり自然である。
更に脱線するが、例えば、F-1でメカニックとドライバーがいる。どっちが偉い?どっちが楽?メカニックがドライバーを目指すのが平等?その逆が平等?
男女生き方、考え方は色々だとは思うが、現在の社会を見ていると、偏った偽りの平等感を押し付けられていると感じる。
勿論、その背景には全世界的な資本構造が、パラダイムに影響していることは自明であるが、解説が長くなりすぎるので、いつか独演会でもしないと説明できない。
「偽りの平等」は資本家が儲かる。核家族が増えたのはテレビを2台売るためだったというのは有名な話だ。核家族は従来の方式よりも消費が大きい。女性の社会進出、偽りの男女平等は安い労働力を提供する。また、晩婚化は消費を拡大する。政治は徹頭徹尾、資本家が安泰になるために動く。教育や福祉も同様である。
偽りのジェンダーを拒否し、自然に帰ろう。愛は「押し付けられた平等という価値観」の延長線上には無いのだ。