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融合

ご存知の通り「全ては一つ」、そして「すべては空」なのですが、理解と体験には童貞と非童貞程の差があります。そのことについて書きます。


2000年代初頭、半年ほどの期間ではありましたが、極度に瞑想を追究した時期があります。命を賭して知覚の扉を啓こうとしたのです(完全にイカレテますねw・・・)。様々な書籍で瞑想について調べ、精神を病む程に打ち込み、今も癒えぬ傷を抱えていますが、後悔はしていません。一般的には考え難いかもしれませんが、瞑想も突き詰めすぎると死ぬと思います。それを感じました。その時、色々と体験したのですが、一つ忘れられない体験があります。

 

冒頭に書いたように、世界は一つということを掌中に収めたのです。

その時は、時間の感覚も無い状態でしたが、おそらく数時間ほど深い瞑想状態にあったと思います。ストンと落ちるような、少し楽になるような感覚の後、自分の範囲が溶け出しました。

意識(もしくは世界)がスローモーションになり、視覚が意識から外れました。目は見えなくなったのか、見ようという意識が無くなってしまったのか、開いているのに機能していませんでした。どんどん自己の存在が広がり、周りとの融合を感じました。この融合は本当の意味でこの世界と分かり合えた、そんな感覚でした。

私は、空気であり、地面であり、森であり、サイであり、岩であり、全ての存在であることを感じました。何故サイかは分かりませんが、そのイメージを強く記憶しています。

他にも、ありとあらゆる存在と融合している感覚が生まれました。今ある感情で説明できる感覚ではないので説明が困難なのですが、概念や映像ではなく、心の奥底にある何かが外部(世界)と繋がったのです。

私は「そうだったのか!!!」と気付きました。どの位の時間その感覚を手に入れていたかは定かではありませんが、暫くするとその感覚は失われました。感覚が失われたという表現が最も適しています。味覚や嗅覚のように今ある一つの感覚が無くなったことを想像するのが最も近いと思います。

私は生涯に一度だけ、その感覚(以降、知覚)を手に入れたのです。確かに私はそれを得たのです。それは、味覚、触覚、嗅覚、痛覚、そして視覚といった知覚の新しい形と呼ぶべきものでした。しかし、その直後、完全にその知覚を失ってしまったので、以降はすべてその感覚の記憶、つまり想像なのです。去勢後の性的快楽のようなイメージが近いと思います。記憶は存在していても本当の感覚は得られない状態です。

瞑想を終了した時刻は朝の5時頃だったと記憶しています。外は青く、私は涙と汗でびしょ濡れでした。

私はその瞑想により心に生涯治らぬ傷を負ってしまいました。二度とそこへ到る程の深い瞑想に挑戦するができなくなってしまいました。ただ、そのとき得た「新たなる知覚」の記憶は確かです。もう得られない知覚。ただの脳の暴走状態だったのか、真理へ近づいたのか。それは分かりません。

私はそういった経験をした。ただそういった事実があった。それだけのことです。そして、その体験の前後で、私は根本的にどこか違う人になっている。そう感じる時があります。※ロボトミー手術(脳への外科手術)の被害者の手記にある状態に近いと思います。

たった数時間の記憶ですが、この稀有な体験をここに記しておきたいと思います。

【追記】
私は「悟り」を神聖視していません。また、この体験を神秘体験ではなく、科学的な体験と考えています。今までにない経路でシナプスが形成され、ニューロン同士が結びついたものと理解しています。上述しているように、「体験という事実があった」それだけのことだと考えています。よって、この体験を通して、自身が特別な存在になったとも考えておりません。そもそも私は、絶対的に「特別な存在」である人間はおらず、同時に(相対的に)全ての人間は特別な存在だと考えています。ですので、超人として私を慕ってもバカらしいのでやめてくださいね。

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